小川典子

おがわ・のりこ

  

繊細なタッチから、ダイナミックな大音量まで、楽器の能力を最大限に引き出すピアニスト。

東京音楽大学付属高校を経て、ジュリアード音楽院に学ぶ。1987年リーズ国際コンクール3位入賞。これを機にロンドンと東京を拠点として活動を始める。国内外の主要オーケストラ、指揮者と共演。06年Newsweekにて、「世界が認めた日本人女性100人」の一人に選ばれる。08年には、サントリーホールをはじめとして各地で、デビュー20週年記念リサイタルを開いた。武満の曲も演奏会で多々演奏し、CD録音も販売されている。武満徹からも信頼されたピアニスト。

 

小川典子さんの著作「夢はピアノとともに」から武満徹と関係があるところを引用します。

 

武満徹『雨の樹』の楽譜物語

 

    武満徹氏に初めて会ったのは、1989年、八ケ岳高原音楽堂でリサイ

   タルを弾いたときである。まだ新人である私に、開演直前、明かりを

   落とした舞台裏でもたらされたのは、「武満徹さんがいらしてますよ

   」のひと言だった。一気に緊張が高まった私が舞台に出ると、真っ先

   に目に入ったのは、写真で拝見するのと同じ、広い額と、思索にふけ

   るような武満氏の表情であった。

    『雨の樹』を演奏したその夜、武満氏は、初版で生じてしまった印

   刷ミスを教えてくれたうえ、ぽつりぽつりとした語り口で、音楽や人

   生についていろいんなことを話してくれた。すっかり感動した私は、

   勇気をもって初版の楽譜にサインをお願いした。

  〈愛情をこめて〉

   何という優しい言葉だろう。そして、何と柔らかい言葉だろう。

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その他、『閉じた眼』の演奏のための練習で、武満氏がたちあって右手から左手にメロディーが受け継がれる一本の音のラインを示してくれたこと。

高校時代に、大江健三郎氏のノーベル賞受賞スピーチで、我々日本人に「ディーセントになってほしい」と語った言葉が、それまで自分が感じてきたことを総括しているように感じ入ったことにふれた後

 

   ・・・・・・・・

    その大江氏と親交の深かった武満徹氏、まさに、大江氏が言葉で伝

   えようとするものを、音楽という形で訴えかけてくる。現代音楽、

   前衛音楽でありながら、武満徹の音楽が世界の人々の心をうつのはそ

   うした普遍的なメッセージがあるからにほかならない。

 

   ・・・・・・・・

    物静かな武満氏が私のピアノに聴き入る後ろ姿を見て、私はますます

   緊張していた。その気持ちを察したのだろう。振り向きざま、ふと、完

   璧なまでの自然な「間」をおいて、言葉が発せられた。

   「君の音色は、ぼくの音楽に合っている気がする」

   このひと言が、私にどれだけ大きな勇気を与えてくれたことだろう。少

   ない言葉のなかに雄弁に語られるメッセージは、生み出される音楽と同

   じだけ、惹きつける力を持っていた。

 

 小川典子さんの著作「夢はピアノとともに」(時事通信社刊)には、小川さんが体験し築きあげてきた音楽の世界と人生体験が文章の構成もよく書いてあります。

ピアノにまつわる話。ピアニストの生活。レッスンについて。作曲家・演奏家とのこと。とても興味深いものがあります。

作文が得意とのことですから、楽しく内容も深く読むことができます。とても感動する本でした。

 

小室等

こむろ・ひとし

 

1943年、東京生まれ。多摩美術大学彫刻科卒業。68年、フォーク・ソング・グループ「六文銭」を結成。71年、「出発の歌」で第2回世界歌謡曲祭グランプリ受賞。75年、吉田拓郎、井上揚水、泉谷しげると「フォーライフ・レコード」設立。その後、さまざまなコンサート活動をはじめ、映画・舞台・テレビドラマの音楽の作曲、DJ,司会、俳優など、幅広く活躍、谷川俊太郎・谷川賢作と一緒のコンサートも行っている。武満の亡き後は、積極的に武満のうたも歌っている。

 

小室等氏の著作「小室等的〔音楽的生活〕事典」(晶文社刊)の中の武満徹の項目から少し引用します。

 

武満徹

 

    フルブライトかなにかの奨学金でアメリカ留学の話があったとき、デ

   ューク・エリントンに師事できるならという武満さんの出した条件を先

   方が理解できなかったらしく実現しなかったということ。

    ぼくはクラシックよりもジャズで音楽を勉強したんですよ、と話して

   くれたことがあるが、戦後、、ジャズ理論に詳しい武満さんのところへ

   ジャズ・ミュージシャンたちが通ってきて、さながらジャズの私塾の様

   相を呈していたことがあったということ。

    これはもしかすると記憶違いかもしれないが、ピーナツ・ハッコーの

   大ヒット“鈴懸の径”は、武満さんが鈴木章治のために編曲したものが元

   になっているとも聞いたことがある。

 

 他にも“死んだ男の残したものは”のこと、歌謡曲にとても詳しいこと等、いろんなめずらしいお話が書いてありました。興味を持たれた方は、著作をお読みください。

 

西村雄一郎

にしむら ゆういちろう

 

映画評論家。1951年佐賀市生まれ。早稲田大学第一文学部演劇科卒業後、渡仏し、映画雑誌「キネマ旬報」パリ駐在員として働く。帰国後、媒体としてのビデオ作品に着眼し、映像ディレクターとして、数々のビデオ作品を演出。1985年から地元冨士町で開かれる古湯映画祭の総合プロデューサーを務め、その功績により佐賀新聞社文化奨励賞を受賞。現在、九州東京を往復して講師、講座を精力的こなしている。佐賀大学特別准教授。

主な著書 『巨匠のメチエ・黒沢明とスタッフたち』フイルムアート社)『黒沢明 音と映像』(立風書房)

 

「黒沢明 音と映像」は大学生時代に黒沢監督と懇意になり卒業論文のテーマとして取り組んだ西村氏にしか書けないかけがえのない貴重な著作です。黒沢明監督の音と映像の秘密が鮮やかに描いてあります。

 

第4章 武満徹の章から 

黒沢監督と早坂文雄の二人は素晴らしい作品を創作してきた。早坂文雄は、溝口健二の『近松物語』(54)のなかで、横笛、太鼓、太棹三味線などの歌舞伎の下座音楽を使って“一音”の表現を試みていた。武満は、この早坂の行った方法論に影響され、早坂がやろうとして果たせなかったことを実践していた。

 

   武満 早坂さんのやっていた映画音楽の仕事をもっとすすめなきゃいけ   

   ないと思うし、『近松物語』でやられた仕事は、僕なんかとても強く影 

   響されています。

   西村 一音の音楽様式なんかですか。

   武満 ええ、それもありますし、日本的な映画音楽の様式とは何かの問

   題ですね。早坂さんはハリウッドの映画音楽のつけ方に対し、批判的で  

   したからね。今度,僕がやった『鑓の権三』(86/篠田正浩)なんか古い

   肥後の笹琵琶を使って、みんな面白いって言ってくれるけど、以前の

   『切腹』(62/小林正樹)にしても、、『近松物語』を一歩も出てませ

   ん。早坂さんがやられたことを継いだだけです。ああした音のつけ方を

   早坂さんがやってくれたことで、僕らは、ためらうことなくやれるんで

   す。そうした日本の楽器に興味をもったのも、早坂さんの影響が、ずい

   ぶんありますしね。

 

『どですかでん』『影武者』『乱』について、武満徹にインタビューした貴重な生の声は記録されています。とても深い内容をもっています。おすすめの本です。

   

   

 

 

篠田正浩

しのだまさひろ

 

1931年3月9日岐阜県生まれ。早稲田大学文学部卒業。高校時代は陸上競技で活躍し。大学時代は駅伝ランナーとして鳴らした。1953年松竹大船撮影所に入所。1960年「恋の片道切符」で監督デビュー。日本のヌーベル・バークの旗手一人として「乾いた湖」「乾いた花」「暗殺」「美しさと哀しみと」などを撮った後、松竹を退社。1967年独立プロ、表現社を設立。2003年、最後の監督作品として「スパイ・ゾルゲ」を公開。武満徹が映画音楽で一緒に取り組んだ作品は、「「乾いた花」「心中天網島」「桜の森の満開の下」「はなれ瞽女おりん」「写楽」等がある。

著作に『日本語の語法で撮りたい』『駆けむける風景』など、また『河原者ノススメ』で泉鏡花賞を受賞した。

 

篠田正浩氏の著作『私が生きた二つの「日本」』(五月書房刊)より武満氏に関するところを書きます。

 

篠田監督は寺山修司に『乾いた湖』シナリオをまかせます。そして映画音楽を武満に委嘱しました。

 

 寺山修司論

 

   武満との最初の出会いである。彼は、すでに無調の音楽を発表してい

   た。彼は寺山のシナリオの文体から、ジャズのなかに短調と長調とも

   つかぬコード進行するブルースに着目して作曲をしてくれた。このと

   きから、私は撮影所で習得した映画作りのルーティンから解放された。

   

日本の芸能の章では、武満徹のラジオ劇「心中天網島」にふれたその瞬間、日本の芸能は死者たちの演劇であり、その舞台は演劇された葬式であるという直感を篠田氏は得ます。近松門左衛門以前の能、古浄瑠璃や歌舞伎などの伝統芸能は、「死者の演劇」と発見します。

 また、鳥追いの芸能で三味線の連れ弾きというのがあります。鳥追いの女二人が同じ曲を演奏するのですが、歩く歩調やリズムが各々でわずかにずれます。かって武満は、「連れ弾きのずれ方はすごくいいもので西欧の音楽概念に存在し無し」と言っていたそうです。それにインスパイアされた武満は、一六世紀にキリスト教布教のために日本に神父の苦難を扱った遠藤周作の「沈黙」の映画音楽で二台のハープによる連れ弾きを試み、見事な響きを与えました。

 この本は、篠田氏の戦前と戦後の二つの世界の体験、そして篠田氏の人生を自分史的にも、また精神史として世界の文化、日本の芸能・文化史としてもとても興味深く読むことができました。武満徹が映画音楽の作曲を決める秘密も少し読み取れます。

 

吉田直哉

よしだ・なおや 

1931年、東京生まれ。東京大学文学部西洋哲学科卒業後、NHK入局。スペシャル番組班チーフディレクターとして先端技術を駆使した映像にとりくむ。ドキュメンタリー作品に『日本の素顔』『現代の記録』『未来への遺産』『21世紀は警告する』、大河ドラマに『太閤記』『源義経』『樅ノ木は残った』など。

 

吉田直哉氏が1997年3月号の雑誌「世界」に記載した文があります。そこから少し紹介します。

 

題は、追憶 武満徹 〈複雑な時間〉への先駆的な旅

 

     武満徹との出会いは1954年(昭和29年)。放送30周年特集に提案し

    た『音の四季』という企画が通ったので、作曲を頼みに行ったとき。

    実は、早坂文雄氏に依頼したのだが、病気(実は死の床についていた

    )で、武満徹という名を教えてくれた。

     さっそく会ってみる。すると、何ともはかなく頼りない外見なのに

    強烈な存在感を発見する。

    「音に貴賤がないことを示すためにも、楽器の音はなしにして、現実

    音だけにするほうがいい」

    「その現実音も、四季を通して同じ音に絞るほうが意味があるんじゃ

    ないかな」

     その当時は、ラジオ番組にことばを使わないことは、それだけで前

    衛とみなされた。さらに作曲家でありながら音楽は不要だといわれて

    驚いてしまう。

     また、『音の四季』の録音素材を聞いているときに武満が、京都の

    大原女の

    「花はいりまへんかあ、きょうはお花どうどすやろか、花いりまへん

    か、・・・・きょうはお花置いときまひょうか、お花どうどすう、き

    ょうはお花よろしおすか、花いりまへんかあ」

    と売り歩く、老若ふたりの掛け合いの声にこっちが驚くほど武満は感

    動したことがあった。

    「すごい!まるでドビュッシィーだ」

    「おどろいたな。ガメランそっくりだ。だからドビュッシィーにきこ

    えるんだな」

     何が共通項なのかと問うと

    「同時に異なる時間が流れている。時間の重層性と、多層性というの

    かな」

 

 その他、楽譜の記譜法や沈黙する沸騰(間)などいろいろなことにふれられている。最後に、思えば武満ほどはやくから”複雑系”を追求した先駆者はいなかったと述べてありました。

 内容をうまくまとめられませんが、興味がある方は雑誌を読んでみてください。